その頃、ディレクターズ・カンパニーが発足し、長谷川監督が代表、そして博報堂を辞めた宮坂進さんが代表取締役社長になった。9人の監督を率いるゴジさんが宮坂さんと組んで、システムとかビジネスも考えたチームを作ったことは素晴らしいと思っていた。
ディレクターズ・カンパニーのメンバーでもある根岸吉太郎監督との映画の機会はほどなくしてやってきた。フジテレビの映画部に所属になり、おそらく初めてこちらから連絡して京王プラザホテルで会ってもらったのが根岸監督だった。ロマンポルノ作品等はすべて名画座で観て『狂った果実』(1981)、そして『遠雷』(1981)等が大好きだった。『探偵物語』(1983)で大ヒットを飛ばすが、フジテレビと一緒に出来ないかと持ち掛けられたのが『永遠の1/2』(1987)だった。
この映画は、レコード盤で言うとA面で、実はぼくのプロデューサー1作目の『私をスキーに連れてって』(1987)がB面(サブ)の扱いで、東宝配給の2本立て公開になる。メインは『永遠の1/2』だった。当然である。私も最初から関わっていたので、撮影クランクアップ後の打ち上げにも参加した。
根岸監督の隣にいた時に、サングラスの長谷川監督が近くにいた。これがあの「ゴジ」かと。『永遠の1/2』は製作「ディレクターズ・カンパニー&フジテレビ&ソニー・ビデオ・インターナショナル」で、ディレカンの代表であるゴジさんも参加していたのである。この時、なぜかゴジさんと会話することを避けてしまった。今、振り返ると理由は定かではないが「まだ、ひよっこの自分が話すべきではない。もうちょっと力をつけてから……」というようなことだったのだろうか。結局、自分のことは認知してもらえないまま帰ってしまった。
それが運命の別れ道だったとは思わないが、『私をスキーに連れてって』は予想を上回るヒットになり、ぼくも『私スキ』のプロデューサーとして多くのメディアに取り上げられるようになり、立て続けに『彼女が水着にきがえたら』(1989)、『波の数だけ抱きしめて』(1991)で、ホイチョイ3部作というトレンディ映画のプロデューサーになってしまった。
その頃、シネスイッチ銀座を立ち上げたり、『病院へ行こう』(1990)や『タスマニア物語』(1990)、『水の旅人 侍KIDS』(1993)等、フジテレビ映画を連発した。当初より、「ゴジさんの3作目は『連合赤軍』」と聞いていて、これはフジテレビとは最も縁遠い企画と思った。まさか、昨年まで30余年もこの企画を一緒にやるとは夢にも思わなかったはずである。しかも実現化しなかった……。













