本田美奈子が、その実力を存分に発揮したのは、ミュージカル『ミス・サイゴン』のヒロイン、キム役を演じてからだろう。東宝設立60周年記念として、かつてない規模のロングラン公演になるミュージカル『ミス・サイゴン』が上演されることになり、製作内容とともに全キャストをオーディションで募る方針をとった。当時はまだプロの俳優や歌手がオーディションを受けることに抵抗があり、本田も逡巡したが応募を決め、約1万5千人の中からキム役を射止めたのである。
1年間歌手としての活動を休み、ブロードウェイで幕を開けた『ミス・サイゴン』の舞台を見に行き、演技のためのジャズダンス、声楽、エアロビクスなどのレッスンのみならず、ベトナム戦争の背景の勉強などを重ね、1992年、帝国劇場で日本初演『ミス・サイゴン』に臨んだ。共演者には市村正親、笹野高史、岸田智史などが名を連ねている。
公演に入ると、のどを守るために家では一切しゃべらず、会話は筆談、徹底した体調管理を続けたが、初日から1ケ月後、舞台装置の重い滑車に右足を轢かれ、大けがをしてしまったのだ。全治3ケ月と言われたが、入院を断り、家でリハビリに励み、足をカバーするギブス用の特別靴をつくってわずか1ケ月で公演に復帰したのである。1年6ケ月に及ぶ『ミス・サイゴン』の舞台でヒロインを務めた本田は、ミュージカル女優として新たな活躍の場を得た。『屋根の上のバイオリン弾き』、『王様と私』、『レ・ミゼラブル』、『ひめゆり』、『十二夜』、『クラウディア』と次々に大作の舞台に臨んだ。さらに、2003年にはクラシックアルバム『アヴェ・マリア』をリリース、北海道から九州まで店頭キャンペーンで回った。「グリーンスリーヴス」、「ジュピター」、「アメイジング・グレイス」など、古くから歌い継がれる名曲に自分の想いを込めて伝えたのである。
『ミス・サイゴン』の訳詞をしたのは、作詞家の岩谷時子である。岩谷は、本田の実力を高く評価した。越路吹雪と宝塚歌劇団で出会ってから、マネージャーをつとめプロデュースした岩谷は本田を越路の再来として大切に育てようとした。二人は『ミス・サイゴン』以来深い絆で結ばれていた。本田の最大のヒット曲「つばさ」(1994)の作詞は岩谷である。
デビュー20周年の2005年、記念アルバムを制作する予定だったが、前年の暮れから風邪や貧血の症状が続き、検査で急性骨髄白血病と診断された。過酷な闘病生活の中にあっても、岩谷が骨折して同じ病院に入院してきたときは、毎日ボイスレコーダーにアカペラとメッセージを送って岩谷を励ましたという。その話だけでも本田の人となりは容易に想像できる。
本田のファンクラブの名称「ブルー・スプリング」は、「青春」を表す。ファンと交流の時間を大切にしてきた本田のもとには、毎日ファンからの応援メッセージが届いていた。若い層から80代まで様々だった。
本田美奈子は多くの人に愛された昭和の最後の歌姫だったと思う。きっと黄泉の国でも、詠い続けているに違いない。
文=黒澤百々子 イラスト=山﨑杉夫 参考文献:『歌姫 本田美奈子.の人生 天に輝く歌』(ワニブックス)表記の「本田美奈子.」は、2004年11月から、姓名判判断により「. 」をつけた。
Page: 1 2